アドラーニュース
平成26年9月20日号

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 アドラー心理学基礎講座理論編
 スピリチュアル・ワーク@元伊勢
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アドラー心理学基礎講座理論編

 「アドラー心理学ブーム」だとかで、町には『アドラー心理学なんとか』と銘打った本があふれています。ブームのきっかけになった岸見一郎さんの『嫌われる勇気』のように良い本もありますが、多くは便乗商法のお粗末な本です。しかし、良い本も交じっていないとは限らないので、良い本とお粗末な本の見分け方について考えてみます。たぶん、3つの基準があると思います。

 第一は、著者が基礎理論をちゃんと理解しているかどうかです。ある著者は、「アドラー心理学は目的論の心理学ですから、原因を考えません」などと書いています。アホとしか言いようがありませんね。(「ええ、原因を考えるの!?」とおっしゃったあなた、勉強が足りませんから、基礎講座理論編に出た方がいいですよ。)

 わが師、バーナード・シャルマン先生は、アリストテレスの四原因説でもって、アドラー心理学が原因をどう考えるかを説明しておられました。すなわち、1)形相因としてのライフスタイル、2)質量因としての活動性水準、3)始動因としての子ども時代の体験、4)目的因としての目標追求性、の4つです。すばらしく難しいですね。基礎講座理論編では、このあたりのお話をします。

 たしかに、アドラー心理学は、「不登校の原因」などというタワケた話はしませんが、それは、「自然科学の一因一果説は人間科学では使えない」というアドラーの発見によるもので、ということは、人間科学は多因多果説だと考えているということです。このあたりのことがしっかりわかっていて、目的論について話をしているのなら、それはちゃんとした本ですが、まあ滅多にそういう本はありません。

 目的論だけでなく、アドラー心理学の基礎理論は、西洋思想史の勉強をした人にとっては、かなり衝撃的な内容です。プラトンやアリストテレスなどのギリシア哲学、スピノザやカントやマルクスやニーチェなどの近代哲学、デカルトやマッハやベルナールの科学哲学をしっかり踏まえながら、しかも非常に本質的な部分で独創的です。アドラー心理学を西洋哲学史の文脈の中できちんと理解していない人は、人にアドラー心理学を教える資格はありません。厳しいことを言いますが、私にアドラー心理学を教えてくださった先生方は、皆さん、そのあたりのことは実にしっかりと身につけておられました。私の基礎講座理論編も、そのあたりのことを踏まえながら、「本物の」アドラー心理学をお伝えしようと思っています。

 良い本とお粗末な本を見分ける第二の基準は、著者が日常生活でアドラー心理学を実践しているかどうかです。講義では「子どもを勇気づけましょう」と言っていながら、家に帰ると子どもを折檻しているようでは、まともなアドレリアンではありませんし、そういう人がまともなアドラー心理学の本が書けるとは思えません。「口先アドラー」が書いた本は、数ページ読むとわかります。実例を挙げてもいいのですが、さしさわりがあるかもしれませんからやめておきます。とにかくそういう本が多いんですよ。

 そういう人たちは、アドラー心理学を、相手を操作し支配するための便利な道具としてしか考えていません。これはとんでもない誤解です。アドラー心理学は、まずなによりも、自己変革のための思想です。自分自身を鍛え直して、共同体感覚をもった人間に作り替えて、そうしてはじめて人を援助することができるようになります。自分は自己執着に凝り固まっていて、それでアドラー心理学の本を書こうなんて、千年早いよ。

 良い本とお粗末な本を見分ける第三の基準は、形式的なことですが、著者が日本アドラー心理学会認定の資格を持っているかどうかです。資格を持っていない人が書く本がかならず間違っているとは言えませんが、無免許運転であることは確かです。日本アドラー心理学会以外の団体が発行した資格を持っている方がおられるかもしれませんが、その資格そのものに権威がありません。日本アドラー心理学会の資格を取得するためには、国際アドラー心理学会連合の基準に沿ったカリキュラムを受講しなければなりません。基礎講座理論編や応用編もその一部です。さらに、ご存じのように、きわめて厳格な資格取得試験に合格した後に初めて資格認定を受けることができます。ですから、最初に本の「著者略歴」のところを見ていただいて、有資格者かどうかを確認してください。有資格者でなければ、無免許運転なんだなと思っていただけばいいです。

 もし、「お勧めの本がありますか?」と尋ねられたら、町では売っていませんが、『パセージ』や『パセージ・プラス』のテキストがお勧めですね。むかしは受講者専用だったのですが、いまでは未受講者もテキストだけ購入できます。発行元の日本アドラー心理学会(http://adler.cside.ne.jp)に問い合わせてください。『パセージ』が2,000円、『パセージ・プラス』が1,800円です。自分で言うのもなんですが、簡潔に書かれていますが、読み応えがありますよ。

 基礎講座理論編は、アドラー心理学のもっとも骨格部分を学ぶ講座です。かなり難しいです。質疑応答の時間をたっぷりとりますので、理解していただけると思います。これと、基礎講座応用編を受けると、アドラー心理学の「知識」の側はバッチリです。後は『パセージ』と『パセージ・プラス』を受けると、「実践」もバッチリです。どれからとりかかっていただいてもかまいませんが、さしあたって11月に神戸で基礎講座理論編を開催します。三宮の駅前の会場をとりましたので、どこからおいでになるのも便利です。ご参加をお待ちしています。  (野田俊作)



スピリチュアル・ワーク@元伊勢

 「瞑想とアドラー心理学は関係があるんですか?」と、ときどき聞かれます。アドラーは瞑想を知りませんでした。しかし、現代の西洋のアドレリアンには、瞑想とかかわっている人が何人もいます。南伝上座仏教の信者もいますし、禅宗の信者もいますし、チベット仏教の信者もたくさんいます。

 なぜ、アドレリアンたちは瞑想に関心を持つのでしょうか。それは「頭でわかっていることを、体でできるようになるため」です。たとえば、「陰性感情は人間関係の問題を解決する上で役に立たないことが多い」ということは、多くの人が認めます。では、実際に陰性感情なしに暮らせるかというと、これがなかなか難しいのです。けれども、瞑想すると、そのうち「感情は自分ではない」ということが実感できるようになります。同じように「思考も自分ではない」と実感できます。感情や思考やイメージは、自分の外側にあります。それはちょうど、川を流れてくるゴミのようなもので、流れてきては去っていきます。ところが瞑想していない人間は、川の中に自分も入ってしまうので、感情や思考やイメージといっしょに流れながら、影響を受けてしまうのです。瞑想すると、川岸にあがることができて、感情も思考もイメージも、自分の外側を流れているものだということに気がつきます。そうなると、完全に主体的に、何をするか何をしないかを、選びとることができるようになります。この状態をチベット仏教では「明知(リクパ)」といいます。明知を得るのが瞑想の目的です。明知を得て初めて、アドラーが言う、「人間は人生の主人公である」という状態を実現できます。

 今回のワークショップは「神仏習合」の立場で瞑想します。明治の初めに「神仏分離」ということがおこなわれて、神道と仏教はまるで別の宗教にされてしまいましたが、それ以前は、ひとつの宗教のふたつの部分でした。特に、室町時代以前には、わざわざ神道と仏教を分けて考える人の方がめずらしかったのです。いろいろ考えたのですが、その方が自然なあり方だと思うようになったので、そういう立場でワークショップをおこないます。

 江戸時代の河内の国に、慈雲尊者飲光(じうんそんじゃおんこう)という方がおられました。この方は、独学でサンスクリットの勉強をなさったり、戒律の復興をなさったりして、それはそれは徳の高いお坊さまだったのですが、晩年に神道の研究をなさって、真言密教の方法を使って神々と交流する方法を開発されました。(もっとも、私は、日本真言宗の方法は知らないので、チベット密教の方法をお教えすることになりますが)。慈雲尊者は「明知」のことを「赤心」とおっしゃいます。その上で、以下のようにおっしゃいました。(現代語訳では、用語を統一するために「明知」と書いておきます)。

 神道をひとことで言いますと、ただひとつの明知です。明知でもって臣民(部下)を養うのは君主(上司)の道です。明知でもって君主(上司)に仕えるのは臣(部下)の道です。明知でもって親に奉仕するのは子の道ですし、明知でもって子を育てるのは親の道です。明知でもって穢れを懺悔しあらためて明知に帰るのが瞑想ということです。天下の人がみな明知に帰れば、国は治まり、家はととのい、個人は自立し、心は清浄です。これが真の神道です。
 此の神道を一言に云はば、唯一箇の赤心なり。赤心にして臣民を撫育するは君の道なり。赤心にして君に仕るは臣の道なり。赤心にして親に仕るは子の道なり。赤心にして子を育むは親の道なり。赤心にして災穢を懺悔し改めて赤心に帰するは祓の法なり。天下の人をして此赤心に帰せしむれば、国治まり家斉り身治り心清浄なり。是れ真の神道也。

 言い回しは古風ですが、内容はきわめてわかりやすいですね。慈雲尊者は、実践的な徳目としては十善戒を勧めておられました。これについては、夏の越前大野のスピリチュアル・ワークで学びました。それは、共同体感覚にそって生きるための具体的な指針になります。そして、それを実践できるためには、瞑想して明知を得ることが必要です。そうしないと、感情や思考に流されて、ついしてはいけないことをしてしまいます。

 今回の会場は、丹後半島の海沿いにある間人(たいざ)という村です。なんでも、聖徳太子のお母さまの間人(はしうど)皇后が、蘇我氏と物部氏との争乱を避けてここに逃げてこられたんだそうです。やがて戦乱もおさまってこの地を離れることになったとき、ご自分の名前をこの土地の人々に贈られたのだそうです。けれど住民は「はしうど」と呼び捨てにするのはあまりにも畏れ多いと思って、皇后が退座(たいざ)されたのにちなんで、間人を「たいざ」と読み替えのだそうです。なかなかゆかしいお話です。近くには、元伊勢と呼ばれる、伊勢神宮が現在の土地に鎮座される以前に伊勢神宮があった場所があります。霊気あふれる地域です。お正月前に一年の穢れを払って、すがすがしく新年を迎えませんか? お待ちしています。  (野田俊作)